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Sep 19, 2015

20年のdumb


 ダムタイプの『S/N』の公演映像を観て来た。20年、避け続け、拒絶し続けてきたものだ。90年代から00年代のほぼ全ての期間「アーティーなもの」を意図的に拒絶してきた。それが如何にも子供じみた拒絶のポーズであること、芸術的なものへの憧れの反動であることも承知しつつ、半ば惰性のように拒絶し続けてきた。

 結局は頭の中に描いた「アーティーなもの」への反発でしかないことを自分自身一番良くわかっていた。だからそれは惰性として続いたのだ。パンクロック的なポーズだったと言っても良い。反抗の形としての「反アート」自体を否定するつもりは無いが、今日、今、もう自分には必要がない。

 上映中、俺は三度涙を流した。一つ目は、ひび割れたアジテーションで、人間のありとあらゆる属性が消えることを夢見ると語られるところ。二つ目は、「あなたが何を言っているのかわからないけれど、あなたが何を言おうとしているのかはわかる」と語られるところ、そして最後、万国旗に笑いながら泣いた。

 それらは、アートを拒絶したパンクロックが、ハードコアな表現の極点で響かせたものとまったく同じだった。誰もがそう受け取るとは思わない。だが俺には瓜二つに見えた。

 批評家がダムタイプを語る言葉も、芸術家がダムタイプを語る言葉も、友人知人がダムタイプを語る言葉も、全て目に入れず耳にも入れずにきた。それで良かったと思っている。

 何か得体の知れない必然のようなものがあって、今、今日この日に『S/N』を観て、それが間違いなく真っ直ぐに普遍の倫理を掴み取ろうとするハードコアな表現であったことに感銘を受けた。20年前の俺がそれを掴めていた自信は無い。

 レイシストに対するカウンターへ参加することが、この日に繋がったこと。またこの日が日本の歴史を画する新しい日であること、その必然を力強く想う。
    

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