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Jul 05, 2014

ハイデガーとアーレント

 教養が身についたことが無いし、身につける資質もないけれど、中世ヨーロッパを足がかりに数百年単位で歴史を考えるようになって以来「手垢もついておらず借り物でもない」概念や言葉などないと思うようになった。

 例外はある。しかしそれは超歴史的なものだ。ただしこの話をし始めると「宗教キチガイのオッサン」扱いを受ける。事実なので仕方がないけれど。

 全体主義という、それまで人類が経験しなかった悪夢の原液を浴びたハンナ・アーレントは「超歴史的ではない言葉」でそれに抗おうとした。

 ユダヤ教という、端的な超歴史性(つまり神)を支柱にした民族宗教内の問題ではなく、全人類に対する罪として、全体主義と絶滅収容所を考察批判するためだ。彼女は歴史の言葉の外に出ない決意をした。

 アーレントの著作が「難解」であるのは、論理や思想的なバックボーンの複雑さがその原因ではない。超歴史的なものに、歴史の内部に留まって抗おうとしたからだ。つまり、あえて手垢のついた言葉を手放さなかった。

 端から不可能に挑んだのだ。「でもやるんだよ」という話。難解という言葉はあたらないかもしれない。晦渋と言った方が良いような気がしてきた。

 ハイデガーはそれを簡単に諦めた。だからああいう風になった。宗教もどき、似非神秘主義、もったいぶったほのめかしといかにもそれらしい造語の嵐。

 ハイデガーの思想の支柱になる概念郡は、実はそんなに「難解」ではない。神や宗教に「親しまざるを得なかった」者達にとっては。

 アーレントの著作群が、民主主義と世界を再考しようとする人たちに何度も読み返されるのとは対照的に、ハイデガーの著作を何度も振り返る「哲学学者」たちは浮世離れしている。勿論「浮世離れ」は揶揄だ。端的に言ってアホだ。

 この「アホさ加減」は、本居宣長に取り憑かれる国学者と共通している。本居とハイデガーに共通する「思想と政治性の表裏一体」には戦慄すら覚える。

 二十数年、ハイデガーもアーレントもろくずっぽ読み返してないけれど、最近になって、今現在のこの国の状況を鑑みながら、そのあたりのことを反芻することが多い。

 「何かの役にたつ」ことだけが思想の役割ではない。根本的にはむしろ逆だとも思う。

 しかし、全体主義、難民の世紀、新自由主義とグローバリゼーションを経て、亡霊のように何度も蘇ろうとするものに対し、ハイデガーや本居宣長の「思想」は何の役にも立たないばかりか、却ってそれを助長することには留意しておくべきだと思う。

 正直に告白しておく。俺は二十数年前の一時期、京都学派と近代の超克に魅了されていた。

 目を覚ましてみれば、なんという戯言だったのだと思う。頭でっかちな戯言。マンボ・ジャンボ。その戯言を懐に抱えて戦地に散った人たちのことを思うと、たまらない気分になる。

 目の前に仮想のハイデガーと仮想のアーレントがいる。

 仮想のハイデガーはこの俺のたまらない気分を「忘れろ」と言い、過去の思想的な偏向については「沈黙しろ」と言う。

 仮想のアーレントは「忘れるな」と言い「語れ」と言う。 

 民主主義というのは、端から不可能なものであり、連続する「でも、やるんだよ」の終わらない戦いなのだと思う。お前はどちらに立つのだと問われ続けている。

 細々した思想史や神学や歴史学や、そういった「教養のようなもの」が自分の頭から綺麗に流れ去ったことを、今は神に感謝している。お陰で、物事が少しだけクリアーに見えるようになった。

 安倍晋三、死ね。

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